100年そこそこの命の問題ではない仏教

 私たちの生命は、悠久の過去から永遠の未来へ流れています。

だから親鸞聖人は、「多生」「億劫」「微塵劫」「昿劫」という、

いずれも気の遠くなるような長年月を表す言葉で、永遠の生命を

説いておられます。

 今日のテレビ座談会で、高森顕徹先生から教えていただきました。


 その流れの中で、生まれて死ぬなんてのは、点にもなりません。

温泉宿に到着して、一時のんびりしても、あくる朝、宿を発たねば

ならないようなものです。



 その時に、どんな情趣ある調度品があってでも、持っていけるで

しょうか。

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。されば

死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」

                      (御文章)

 蓮如上人も、死んでいく時は丸裸だと仰っています。


 しかも、温泉なら楽しめるでしょうが、人生苦なりでは

ありませんか。

「従苦入苦 従冥入冥」(大無量寿経

 私たちは、苦しむためにこの世に生まれ、後生も暗い世界へ

堕ちていくしかないのでしょうか。


 そうではない、未来永劫にわたって幸せになれる人生の目的が

あるのだと親鸞聖人は仰っています。この一瞬の人生で、

阿弥陀仏の本願に救い摂られれば、光明輝く永遠の未来が

待っている。多生永劫の目的を説かれているのが仏法です。

 この世、80年か100年の話とは次元が違います。