阿弥陀仏を信じるのも自力の信心?私の心で信じるから
今日、座談会が行われましたよ。
『歎異抄』の〝扇の要〟「ただ信心を要とす」(第1章)
の「信心」とはどんなことか、詳しく教えてくださいました。
「信心」というと、心で何かを信じること。神や仏を
信じることだと思っている人が多いでしょうが、
明日もあると命を信じ、健康を信じ、家族を信じ、
金や財産、地位、名誉を信じるのも、信心です。
何かを信じなければ、私たちは生きていけません。
それらはすべて、自分の心で信じるから、
「自力の信心」といわれます。命も健康も、家族も、
この世の幸せは何一つ、永遠なるものはありません。
たとえ、80年か100年続いても、死んでいく時には、
心の明かりにならないではありませんか。
信じていたものに裏切られたら、私たちは苦しみます。
病気で苦しむのは、健康に裏切られたから。
交通事故で家族を失って、悲嘆のどん底の人もあります。
では、もう裏切らないものはあるのでしょうか。
あるのです。大宇宙の数え切れないほどの仏の、
本師本仏といわれる阿弥陀仏こそ、私たちをもう
捨てられることのない仏さまなのです。
ところが、その弥陀を信じるのも、自力の信心であり、
親鸞聖人の勧められた「他力の信心」ではないので、
助からないと仰るのです。なぜでしょう。