阿弥陀仏を信じるのも自力の信心?私の心で信じるから

 富山県射水市親鸞会館が擁する二千畳の大講堂で、

今日、座談会が行われましたよ。

高森顕徹先生は、ご著書の『歎異抄をひらく』を通して、

歎異抄』の〝扇の要〟「ただ信心を要とす」(第1章)

の「信心」とはどんなことか、詳しく教えてくださいました。


「信心」というと、心で何かを信じること。神や仏を

信じることだと思っている人が多いでしょうが、

明日もあると命を信じ、健康を信じ、家族を信じ、

金や財産、地位、名誉を信じるのも、信心です。

 何かを信じなければ、私たちは生きていけません。


 それらはすべて、自分の心で信じるから、

「自力の信心」といわれます。命も健康も、家族も、

この世の幸せは何一つ、永遠なるものはありません。

たとえ、80年か100年続いても、死んでいく時には、

心の明かりにならないではありませんか。

 信じていたものに裏切られたら、私たちは苦しみます。

病気で苦しむのは、健康に裏切られたから。

交通事故で家族を失って、悲嘆のどん底の人もあります。


 では、もう裏切らないものはあるのでしょうか。

あるのです。大宇宙の数え切れないほどの仏の、

本師本仏といわれる阿弥陀仏こそ、私たちをもう

捨てられることのない仏さまなのです。


 ところが、その弥陀を信じるのも、自力の信心であり、

親鸞聖人の勧められた「他力の信心」ではないので、

助からないと仰るのです。なぜでしょう。