阿弥陀仏を信じるのも自力の信心?私の心で信じるから
今日、座談会が行われましたよ。
『歎異抄』の〝扇の要〟「ただ信心を要とす」(第1章)
の「信心」とはどんなことか、詳しく教えてくださいました。
「信心」というと、心で何かを信じること。神や仏を
信じることだと思っている人が多いでしょうが、
明日もあると命を信じ、健康を信じ、家族を信じ、
金や財産、地位、名誉を信じるのも、信心です。
何かを信じなければ、私たちは生きていけません。
それらはすべて、自分の心で信じるから、
「自力の信心」といわれます。命も健康も、家族も、
この世の幸せは何一つ、永遠なるものはありません。
たとえ、80年か100年続いても、死んでいく時には、
心の明かりにならないではありませんか。
信じていたものに裏切られたら、私たちは苦しみます。
病気で苦しむのは、健康に裏切られたから。
交通事故で家族を失って、悲嘆のどん底の人もあります。
では、もう裏切らないものはあるのでしょうか。
あるのです。大宇宙の数え切れないほどの仏の、
本師本仏といわれる阿弥陀仏こそ、私たちをもう
捨てられることのない仏さまなのです。
ところが、その弥陀を信じるのも、自力の信心であり、
親鸞聖人の勧められた「他力の信心」ではないので、
助からないと仰るのです。なぜでしょう。
感動ありがとうパラリンピック、でも色あせる宿命
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100323-00000011-maip-spo
日本はメダル11個、過去最高とのことでした。メダルの数よりも、
障害に負けず、人生をかけて競技する選手の心意気が、
感動・感激を与えるのではないでしょうか。
でも、この世の感動は、やがて色あせ、忘れ去られるもの。
次の瞬間から崩壊が始まり、オリンピックの感動ともなれば、
もう消滅した人も多いのでは。
それに比べて、すべての人を絶対の幸福に救うという
阿弥陀仏の本願に救い摂られ、未来永劫の幸せになった感動は、
色あせることがありません。
蓮如上人の『御一代記聞書』には、次のような一節があります。
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「『物には飽くことはあれども、仏に成ることと、
弥陀の御恩を喜ぶとは、飽きたる事はなし。焼けども失せぬ重宝は
南無阿弥陀仏なり。然れば、弥陀広大の御慈悲殊勝なり。
信ある人を見るさえ尊し。よくよくの御慈悲なり』と云々」
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永遠の幸福である弥陀の救いこそ、人生の目的ですね。
弥陀の救いに向かってこそ「人間の真の生きる道」
第2次世界大戦中の「死の行進」って知ってますか。
1942年、フィリピンのバターン半島を攻略した日本軍が、
捕虜を炎天下で長距離歩かせ、多数の死者を出したとされる事件です。
その写真だとされた歴史的な1枚が、実は数週間後の別の写真だった
そうです。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100321-OYT1T00456.htm
写真の是非はともかく、捕らえられたアメリカとフィリピンの兵士
約5万と、一般難民約3万は皆飢え、多くがマラリアなどの風土病に
かかっていたといわれます。彼らを、フィリピンで最も暑い4月に、
マニラから100キロ以上離れたサンフェルナンドまで歩かせたのです。
途中、水も食糧も与えず、倒れた者は刺殺・銃殺され、8千人が
死んだといいます。責任者の本間雅晴中将は敗戦後、
戦犯として処刑されました。
人生の目的を知らずに生きるのは、行き先分からぬまま歩く
捕虜のようなもの。「死の行進」に違いありません。
私たちの一生は、こんな絶望的な惨劇なのでしょうか。
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「仏教」と聞くと、地獄や極楽など死後物語ばかりとされている。
「弥陀の誓願」といっても、〝死後の極楽参り〟か、ぐらいに
考えている人がほとんどだ。
万人のその誤解を正し、弥陀の救いは〝今〟であり、その救済は
如何なるものかを明示し、人間の真の生きる道をひらかれたのが
親鸞聖人である。
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現在ただ今、「摂取不捨の利益」という凄い弥陀の救いに遇うことが
人生の目的。それに向かって生きるのが、「人間の真の生きる道」です。
決して、苦しみもだえて死ぬために、生きているのではありません。
今日の、テレビ座談会で教えていただきました。
ホームランの世界記録を打ち立てても忘れ去られる
東京オリンピックの昭和39年に生まれた、野球小僧の私に
とって、プロ野球のスーパースターは、すでに衰えの目立った
「4番 ファースト 王」
と自分でアナウンスして、右足上げてバットを構えたものです。
福岡ソフトバンクのヤフードーム内に開設されるそうですね。
http://www.afpbb.com/article/sports/baseball/baseball-others/2708244/5472995
通算868本のホームランを初めとする偉業を称える
博物館だそうです。
この構想に、王さんは、こんなコメントを語っています。
「私は夢中で野球をやっただけ。未来の子どもたちに
こういう人がいたんだとお役に立てば……」
どんな記録も、早晩忘れ去られ、
「そんな人、いたのか!?」
と思われます。王さんのような人もしかり、私なら10年も
もたぬでしょう。
名誉や地位はこの世限り。今生で弥陀の本願に救い摂られた
人は、往生極楽間違いない身になれるのです。
王さんも聞いてください。