信心の同異は、人生の目的が万人唯一か人それぞれかの相違

 弥陀に救われたら、信心は同じになるのか、異なるのか。

「信心同異の諍論」とは、親鸞聖人34歳の御時、法然門下の高弟である

聖信房・勢観房・念仏房との間で起きた論争です。


 今宵は、富山県射水市のT様宅でアニメ勉強会を開き、皆さんと

『世界の光・親鸞聖人』第2部の「信心同異の諍論」の場面を

見せていただきました。

 そのあと、高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』を拝読しましたよ。

信心は同じか異なるかの論争は、人生の目的は万人共通唯一か人それぞれか、

の議論と等しいのです。


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「信心」 と聞くと、 無宗教の自分とは、 なんの関係もないように思う人があるかも

しれないが、 ひろくいえば、 仏や神を信ずるだけが信心ではなかろう。 私たちは、

命や健康、 金や財産、 名誉や地位、 子供は親を、 妻は夫を、 何かを信じなければ

生きてはゆけない。 生きるとは信ずることだといえよう。

 明日もあるという命の信心、 達者でおれると思っている健康信心、 金の信心やら、

財の信心、 権力信心やら名誉信心、 地位信心、 科学信心、 医学信心、 思想信心など、

信じているものはいろいろある。

”何を”命として信ずるか、 また、 ”その信じ方”も、 智恵や学問、 経験などの

違いで人それぞれだから、 「信心は人それぞれ」 となるのも当然である。 各人が

命として信じていることが、 「人生の目的」 のようにいわれているので、

「人生の目的」 も人それぞれと言われるのもうなずける。

 聖信房・勢観房・念仏房たちの意見を、 言いかえればこうなろう。

法然上人の人生の目的と、 われわれの目的は異なって当たり前。 智恵第一と

称讃されるお師匠さまと、 同じ目的がどうして果たせようぞ」

 人生の目的を、 ”人それぞれ”という主張を認めぬ聖人は、 真っ向から

対立される。

「人生の目的は、 法然上人も親鸞もまったく同じ。 それは智恵や学問、 経験などが

同一ということではない。 人として生まれてきた目的のことを言っているのだ」

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 高森顕徹先生公式サイトはこちら。

   http://www.takamori.info/