93歳、人生最後の一瞬まで

 日ごろから懇意にしていただいている、熊本県の93歳の

親鸞学徒の方から、封書で暑中見舞いを賜りました。

 今年はすでに5、6通目、しっかりした筆致のお手紙を、

半分以下の歳の私に、丁寧に書いてくださいます。


「私も今年は特に体が弱ってしまいました。6月の降誕会にも

参詣できなくて、残念に思っています。高森顕徹先生のお話を

聴聞できることが、最高の幸せだったと思っています。

『一向専念無量寿仏』だけが真と思っています。各地の寺の

住職たちも目覚めよと言いたいばかり。

 人は皆、いつまでも生きたいけれども、体は長く保てず、

やがて死を迎えねばなりません。この世で、親鸞聖人のように

即得往生でき、一念で阿弥陀仏のご廻向を賜りたいばかりです」


 地元では、今もできる限り、聞法されているそうです。

命のすべてを聞法に燃やそうとしておられる言葉が、心に

迫ってきます。

 高森先生監修の『なぜ生きる』を再読し、今夜限りかも

知れぬ命、私も聞法の人生を全うしたいと思います。

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 先に無明の闇とは 「後生暗い心」 と書いた。 死んだ後の

後生と聞くと、 三十年も五十年も先のことのように思いがちだが、

そうだろうか。 今晩死ねば今晩から後生である。 いや一時間後、

一分後かもしれない。

 阪神大震災のときなどは、 机で勉強していた姿勢のままで

亡くなっていた受験生もいた。 今日も全国各地で多くの人が、

交通事故などで命を落としている。 死ぬなんて、 ユメにも思って

いなかった人たちばかりであろう。 私たちは、 いつ後生へ

突っ込んでゆくかもしれないのだ。

「出息入息 不待命終」

”出る息は入る息を待たず、 命終わる”と釈尊は説かれている。

 吐いた息が吸えないときから後生がはじまる。 吸う息吐く息が、

死とふれあっていることが知らされる。 たとえば十二月三十一日、

午後十一時五十九分五十九秒では、 一秒後に三十一日が一日に、

十二月が一月に、 今年が来年に変わるように、 今生が後生に

変わるのも一瞬である。 されば 「後生」 といっても、

吸う息吐く息の 「現在」 におさまるのだ。

 後生暗い心とは、 五十年、 六十年先の闇ではない。 今に暗い心

である。 現在に暗い心とは、 現在の自己に暗いことにほかならない。

自己の現在を隠すもの、 それが無明の闇なのだ。 無明が破れて、

自己の素顔が明らかになると、 過去も未来も鮮明になる。

章のはじめに掲載した 「機の深信」 は、 その告白である。

深信は、 決して憶測や想像のようにおぼろではない。

実地の体験なのだ。

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      http://www.takamori.info/