シャボン玉のような人生、いつまで浮いていられるか
今日は、「親鸞学徒追悼法要」が行われましたよ。
くださいました。
浄土真宗親鸞会の追悼法要は、故人の恩恵をしのぶとともに、
自身の後生の一大事を解決するため、真剣な聞法に身をしずめる日です。
シャボン玉のような人生、ふわりふわりと浮かんでいるうちに、
空気中のチリに当たれば、あっけなく破裂してしまう。いつまで、
浮かんでいられるでしょうか。
先に亡くなった人は、そんな無常を教えてくださった方なのです。
かく言う私も、7年前に亡くなった父の追悼をしましたが、
情けないことに、普段はすっかり忘れています。2年半も闘病した
父だったのに、です。
今日は家族とともに、父をしのんで、聞かせていただきました。
高森先生の『歎異抄をひらく』から、法要の意味を教えて
いただきましょう。
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では、葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、仏法聞いた人には
仏恩報謝・法味愛楽、仏法知らぬ人には仏縁ともなろう。
毎年、多くの交通事故死が報じられる。「昨年は何千人」と聞いても
少しも驚かない。ただ漫然と数字を見るだけで、「死」については、
まったくマヒしていないだろうか。
忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。
そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、人生を見つめる
得難い機会になることがある。
「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死ではなかろうか」
否応なしに冷厳な真実を見せつけられ、厳粛な思いにさせられる。
願わくは、単なるしきたりに終わらせず、自己の後生の一大事を感得し、
解脱を求める機縁としたいものである。