セミの亡骸に、自分の行く末をおもう
8月に入り、まだ梅雨は明けませんが、セミは元気に鳴いています。
とは言っても、やがてそこかしこにムクロを投げ出し、忘れがちな無常を、
訴えてくれることでしょう。
今日の『読売新聞』1面「編集手帳」にも、ありました。
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朝、自宅のベランダで蝉を見つけた。腹を上に向けて動かない。コンクリートの
上では土に返ることもできなかろうと、手にとって階下の地面に抛(ほう)った。
と、指先を離れる瞬間、まだ息があったらしく、蝉は羽ばたいて視界から消えた◆
〈来年の今日に逢(あ)わないもののため欅(けやき)は蝉をふところに抱く
清水矢一〉。来年のきょうも木々は緑を茂らせているが、いま鳴いている蝉は
もうそこにいない。短いその命は古来、はかないもののたとえとされてきた
(中略)飛び立つ瞬間の、腹部の振動が指先に残っている。命の鼓動とは
哀しいものである。
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やがて、すべてに見捨てられて死ぬのが私たちですから、
「今のままで後悔ないか」
「死ぬために生きているようなものではないか」
「それなのに、なぜ生きる」
という不安が常にうごめいているのです。そして、その不安を
解消したいと、生きる意味を必死に求めている心が、だれにでも
あるのです。
これを、高森顕徹先生監修の『なぜ生きる』には、こう書かれて
います。
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人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、
激しく鳴り響いている、とカミュは言いました。どうしても生きる目的を知りたい、
いや知らなかったら生きてゆけないのが人間です。
「目的なんて、考えなくても生きられるよ」と強弁する人は、幸福なのでも
不幸なのでもありません。おそらく多忙なのでしょう。