石原裕次郎さんの23回忌法要に僧侶120人!

 昨日、石原裕次郎さんの23回忌法要が、東京・新宿の国立競技場で

行われたようですよ。


YAHOO!ニュースより
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090705-00000652-yom-ent


 これだけの年月を経ても、11万7千人が参列、献花するファンの列は

最長約1キロ・メートルになったそうです。愛され、惜しまれて

亡くなられたことが、よく分かります。


 石原プロ社長の渡哲也の音頭で、参列者が遺影に向かって、

「裕ちゃん」と3回叫んだといいます。果たして、裕次郎さんに

届いたのでしょうか。


 親鸞聖人は、葬式・年忌法要は、死者のためにならない、と

教えてくださっています。これって、衝撃的なことです。


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親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」

                            (『歎異抄』第五章)

(意訳)

親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことがない」




 葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になって

いるようだ。

 印度でも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、善い所へ

生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねている。

 黙って小石を拾い近くの池に投げられた釈迦は、沈んでいった石を指さし、

「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、

石が浮いてくると思うか」と反問されている。

 石は自身の重さで沈んでいったのである。そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。

 人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな

経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれている。

 読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。

釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の心田を耕す

教法だった。死者の為の葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったといわれる。

 むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟を教示された

のが仏教であった。

 今日それが、仏教徒を自認している人でも、葬式や法事・読経などの儀式が、

死人を幸せにすることだと当然視している。その迷信は金剛のごとしと言えよう。

 そんな渦中、

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」

の告白は、まさに青天の霹靂であるにちがいない。


                   (高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』)

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 非常に多くの人が、驚くことだと思います。葬式・法事などの仏事が、まさに

仏教だと心得ている人が多いからです。

 では、法要は無意味なのでしょうか。

長くなりますが、高森先生からもう少し、教えていただきましょう。


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 では、葬儀や法要・墓参は全く無意味なのかといえば、仏法聞いた人には仏恩報謝・

法味愛楽、仏法知らぬ人には仏縁ともなろう。

 毎年、多くの交通事故死が報じられる。「昨年は何千人」と聞いても少しも驚かない。

ただ漫然と数字を見るだけで、「死」については、まったくマヒしていないだろうか。

 忙しい忙しいと朝夕欲に振り回され、自己を凝視することがない。

 そんなある日、葬儀に参列したり、墓前にぬかずく時、人生を見つめる得難い機会に

なることがある。

「オレも一度は死なねばならぬ。酔生夢死ではなかろうか」

 否応なしに冷厳な真実を見せつけられ、厳粛な思いにさせられる。

 願わくは、単なるしきたりに終わらせず、自己の後生の一大事を感得し、解脱を

求める機縁としたいものである。


                  (高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』)

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 亡き父の法要を行うと、普段は仏法には見向きもしない父の兄弟でも、

座って聞いています。死んだ人のためでなく、生きている私たちが仏法を聞く

勝縁なのです。


 報道では、裕次郎さんの法要には僧侶が120人も来て読経したとのこと。

だれ一人として、真の仏法を説く人はなかったようです。








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